育自

0(ゼロ)、無(む)、空(くう)

更新日:

 

前回、自己受容と自己肯定のことを書きました。
自己受容は地下部分(マイナスから0)、自己肯定は地上の建物部分(0からプラス)ですね。
また、自己受容は過去から今までの、「本当は~~したかった、して欲しかった」という思いのこと。
自己肯定は、未来に「本当は~~したい。」という思い。

時系列を数直線上に表すと、過去はマイナス、今は0、未来をプラスと考えます。
そうすると、自己受容はマイナスから0を埋めるということですね!!

それで、このマイナスから0を埋めるにはどうしたら良いんだろう??
マイナスをゼロにするには??

ところで、ゼロって無(む)??何も無い??
地下部分や過去は存在するから、無(む)=無いとは違うよね??

仏教用語でよく聞く、空(くう)って空(から)=無(む)、無いってこと??

独身の頃、すっごく気持ちがしんどかった時、「座禅でもすれば、何かの答えが出るかなぁ・・・」なんて思ったこともありました。
(実際には行きませんでしたが、 一人で鴨川のほとりと歩いたり、神社に行ったりしていました。)

スピリチュアルな話しが好きなので、宗教的になってしまうけど、ちょっと調べてみました。

禅仏教の「無」

座禅を組んでいる時に「無」になるように言われるようですが、無ってどういうことでしょう?

何も考えない、ぼーっとしている状態をいうのかと思いきや、禅宗で悟りを開くのに3,40年かかるらしい、
そんな大変な修行が、「ただ何も考えない」で済まされるはずもない・・・。
無字三年という言葉が示す通り、無を体験するには三年はかかる、しかも、みっちり休み無く三年間です。

 

何も考えないって、難しいですよね??
私には難しいです。目をつぶって何も考えるな!って言われても、
絶対、昨日のこと、何年か前のこと、
「あのとき、あーしていれば良かった。こーしていれば、また違う人生だったかも?」
「今日、何を買い物して帰ろう?」
とか、明日のこと、数日後のこと、数年先のこと、余計な事ばかり、
頭をよぎって、「何も考えない」なんてなかなか・・・・。

 

では、数学的なゼロ??「マイナスでもプラスでもない」「どちらにも偏らない」「スタート地点」

どうやら、これも少し違うようです。

一般的に「無」とは、「自然と一体になること」「分別心をなくすこと」「自他の境界をなくすこと」。
集中して座っていると、自然の音が耳に入ってきて、自分が自然と一体になったような状態になります。
自分が風なのか、風が自分なのか?
「雑念に惑わされず、集中している状態」
「身体を調え、呼吸を調え、心を調える」
これが「無」のようです。

文で読むより、体験して理解するのが手っ取り早いようですが、3年もかかるんですね・・・。
奥が深い。

仏教の「空」


「空」とは、「固定的実体」もしくは「我」の無いこと(無我)、実体性を欠いていることを意味し、「固定観念に執らわれない」「執らわれない心」や仏教における悟りの境地。
般若心経に「色即是空」という言葉があります。この世の中で認識されることはすべて、「空(くう)」であるという意味です。

「色」は目に見える物質的なものすべて、この世に実在しているものすべて、ということ。
「空(くう)とは~~」と一概には言えない奥深さがあるようです。
なにも無いけど、「無」でもない。

「空」の理解を深めるには、その背景、根底、内容を理解する必要があるようです。難しい・・・・。

「空」の背景には、「因縁」があるようです。
「因縁」とは、直接的原因である「因」と間接的原因である「縁」をいいます。
「因」という直接的原因が結果を生むのではなく、「縁」という間接的原因も作用して、因縁が混ざり合い補い合った上で、結果になるということです。

因縁によって成り立っている私たちの世界は、どんなものでも孤立しておらず、すべてのものは実体があるのではなく、お互いに無限の関係において現象として現れているのです。

この「因縁」って、今、私が実践している「引き寄せの法則」にも通じている気がします。

「色即是空」とは、「この世に存在しているものすべては、『何も無い(=因と縁によって仮にあるだけで孤立の存在ではない)』のと同じ」ということです。

キリスト教の「無」


キリスト教では、聖書に「イエスという人がこの地上に生まれ、歩み、死なれて、復活された」ことが、物語られています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分となり、人間と同じ者になられました。」自らの神の身分を捨て、あえて人間となり空しくし、低くする神の謙虚を「無にする」と表現しています。「キリストは人間の姿で現れ、へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。」と書かれています。「十字架の死」というのは「ただ死なれた」ということにとどまらず、「犯罪人として処刑された」という意味です。キリストは人間の姿になったばかりか人間から断罪され拒否され処刑されてしまったのです。人間から人間以下とされ、捨てられてしまいました。キリストは自らを空しくされ、徹底的に「無」になられました。宗教的な大指導者として華々しく活躍しても良かったのですが、そうはされずに、犯罪人として処刑されました。そのことの「意味」をも地上に残されず、「無」に徹底され、「愛」を示されたそうです。

 

どんな自分もそのままで良い

調べれば調べるほど、疑問の答えが出たのか出てないのか、分からなくなってきました・・・(;゚ロ゚)

過去にすっごくしんどくて、自信もなく、愛情を受け取る器も小さく、自分に起こっていることすべてを環境や人のせいにしていた、こんな私が20年近く経って、今、自分らしさを表現できているのは、自己受容できたからだと思っています。

マイナスから0を埋めて自己受容できたのは、
自然の中から目に見えない大いなる力を感じ、潜在意識に眠る「過去の抑えつけていた」感情を解放させ、
どんな自分でも「そのままで良い。」と受け入れ、愛情を受け取る器を大きくできたからだと思います。
周りには、愛やエネルギー、見えないおおいなる力が溢れています。

あなたも、「どんな自分もそのままで良い」と自己受容してあげてくださいね。

-育自

Copyright© 育自の森 , 2018 All Rights Reserved Powered by AFFINGER4.